『ゼロ・ダーク・サーティ』


ゼロ・ダーク・サーティ』観てきました。何だろ、実録物として観たら抜けがあるような気もするし、ドラマとして観たら物足りない事この上ない。中途半端なモヤモヤ感が観終わった後の正直な気持ちだな。

どうやってビン・ラディンが死んだのかは良く解った。ただ「あー、そういう事があったのね」という以上の感想が出ない。何でだろ?という事をちょっとだけツラツラと。


【以下、内容について触れていますので注意】


人物の掘り下げが殆ど無いのは、ある程度意図的だろうと思う。主人公を殊更英雄的に描く事を拒むというか、そういう一人の突出した人格が事件を解決したっていう簡単な構図にしたくは無かったのだろう。時期的に最近すぎるし、まあ関係者もほぼそのまま現役だろうしね。
でも、それが映画的というドラマ的には全くもって物足りなさを感じさせる原因に。


主人公のマヤ。この人の心情の掘り下げは殆どない。冒頭に望んで来たわけでは無い。という素人くささは描かれていて、終盤にまで行くと、まあプロフェッショナルと格上げはされる(時間的に10年近く経っているからね)。けれど、内面的な成長というか、変化は描かれない。描かれているのは、職業人的な成長のみ。これではドラマ的にはなり得ない。

職業物ドラマの持つ一つの命題として、主人公がどれだけ職業的な枠組みから逸脱して事象に取り組むのか?というのがある。どれだけ特殊な職業であっても、それを仕事としている以上、真面目に一生懸命取り組むのは至極当たり前の事。どんなに辛いことがあっても「それが仕事でしょ。選んだんでしょ。嫌なら辞めろよ」となる。誰の実生活でもそう。だからこそ、その人物の意思が枠組みから逸脱することでしかドラマは生まれない。

今回で言えば、それが職業的野心でも、高卒リクルートからくる劣等感でも、9.11によって狂わされた自己でも良いので、何かを明示して欲しかった。そして、最後の自説を突き通す際に、それらが枷になって欲しかった。
例えば、マヤが立てた作戦が失敗に終わった場合、ビン・ラディンがあの屋敷に居なかった場合、職を辞させられるとか、進退をかけられるとかがあるだけで、印象が全然違う。それらの枷をはめるだけで、職業的枠組みを逸脱出来る。そして、そこで初めてマヤの意思が明示出来るのだ。
そうすれば、ラストの突入シークエンスの意味合いも違ってくる。
ラストの突入シークエンスは、確かにその場にいるような臨場感は与えてくれるが、カタルシスは全く与えてくれない。観客はビン・ラディンがそこにいる事は知っているし、殺害に成功する事も知っている。でも、それでも「成功するのかな?失敗しないで欲しい」と思わせるのがドラマの力だ。なぜそれが無いのか?ベット、賭けるものが何もないからだ。
だから、目の前で繰り広げられる突入劇は全くの他人事になる。そして、それを見つめるマヤにも同じものを感じてしまう。失うものが無いのだ。
もし、彼女の何かが賭けられていたならば、突入シーンはもうスピーカーから流れてくる音声だけでも成立すると思う。


後、恐らくそれもリアリティの追求だからだろうけど、上司とか多すぎ。誰か一人、それこそ支局長でまとめても良いくらい。ワシントンに戻ってから、別の人とのやり取りとかになるけど、その人に思い入れも思い出もないので、衝突しても何か違和感だったな。


とまあ、長々と書きましたが、結局自分がアメリカ人では無いので、掘り下げが欲しいとか思ってしまっているのかも。アメリカ人にとってビン・ラディンを探して殺す事に関して、そんな特別な個人的感傷なんていらないのかも知れない。同胞を何千人も殺されているのだから、当たり前の感情過ぎて。