「風立ちぬ」

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風立ちぬ』の感想なんぞを書いてみようと思います。
以下は映画の内容に触れていますので、読まれる方は自己責任でお願いします。




映画を観る前、宮崎駿という作家は「宮崎さんはこれは描けないだろう」と言われる事を作品で反駁している人だという印象があったので、恐らく「宮崎さんには“大人の恋愛”は描けないだろう」と言う事への回答で作ったんだろうぐらいに思っていました。
なので、まあそんなに食指は動かなかったのですが、観てみると、そんな俺の単純な思考なんて吹き飛ばす程の怪作でした。


物語の前半は堀越二郎という実在の人物が、戦闘機設計に携わって行くまでを丹念に描きます。
プロジェクトX」か「栄光無き天才たち」といったテイスト。どちらにも嵌った俺としては前半はすんなり受け入れられた。


少し映画から離れるが、前半を観ながら思い出したのは、「栄光無き天才たち」の宇宙開発競争の話におけるフォン・ブラウンの事。
ただ、宇宙に行きたいという夢を持っていたフォン・ブラウンは遅々として進まぬロケット研究に業を煮やし、軍事転用の効果に気付いたヒトラーと手を組みます。そして生まれたV2ロケットは、開戦当初のドイツの大きな力になります。敗戦後、アメリカに亡命したフォン・ブラウンは、幾多のアメリカの研究者が失敗した、月へ人類を送り込む計画を引継ぎ、アポロ計画を成功に導びく。
そのフォン・ブラウンは「宇宙に行く為なら、悪魔に魂を売り渡してもいいと思った」との言葉を残している。


そう、「夢を追うという事は、悪魔と契約する事なのだ」という事をこの物語は現しているのだ。


そして、後半の恋愛パートに移るとそれは更に如実に現される。
挫折を味わい、休養の為訪れた軽井沢で、関東大震災で助けた少女、菜穂子と再会し、出会ってすぐに結婚の約束を取り付ける。
菜穂子は結核を患っている事を告白するが、すんなり二郎は受け入れる。
運命的な再会で、お互いが惹かれ合う様が丁寧に描き出される。なかなか爽やかなシークエンス。
が、ここで背筋が凍るような感覚が…。
二郎はなぜ菜穂子を受け入れたのか?菜穂子の病気を受け入れたのか?
答え的には「別に誰でも良かったからだ」。
壁にぶち当たった二郎は、自分を変容してくれる要素をそこに見出したから。
そして、全く都合が良いことに、要素を構成するまでの手順を省ける相手だったから。
二郎にとって菜穂子はドーピングなのだ。


もし助けたお手伝いさんのがあそこに現れていたら、多分二郎にとってはその人で
良かったのだ(それを諮詢するシーンが震災直後にあったりする)。


これは、同期の本庄が、所帯を持つことを二郎に告げるセリフに連なっている。
失敗している自分と、成功を収めようとしている同期との差がそこにあるのでは洞察するのだ。


菜穂子の方はどうだろう。菜穂子は自分が病魔に侵されている事を知っている。
自分に残された時間が少ない事も。
女性として、残された少ない時間で菜穂子が求めたもの、それは「誰かの心の中に
美しい自分の姿を残す事」その相手として二郎を選ぶのだ。
恐らく菜穂子は「何かを残す事」に執着はあっただろう。絵を描いていたのはそういう事だろう。
そこに二郎が現れる。菜穂子にとっても、二郎は要素を構成するまでの手順を省ける相手だったのだ。
菜穂子には二郎が自分を受け入れるだろうという確信があった。だからこそ、映画史上最もあっさりとした難病告白シーンが生まれたのだ。


まあ、軽井沢の再会は偶然って事なんだろうけど、実際は菜穂子が二郎の行動を事前に知っていて、父親も騙して偶然を装って再会って話だと、菜穂子の執着がもっと強調されたりするんだろうけど。


男女の関係というものが、補完関係だとしたら、二郎と菜穂子の関係は正に完全で、
山を降りてきた難病の女性に対する扱いが薄情だという声もあるが、
自分の存在が、相手の最も大切なものを構築する力になるとしたら、それは菜穂子が最も望んだもの。それこそが相手に自分を刻み込む手段だからだ。


だからこそ、お互いの目的、二郎は新しく設計した飛行機の成功、菜穂子は美しい自分の姿の限界を迎えた瞬間、二人は袂を別つのだ。


この映画には矛盾が散りばめられている。カプローニのピラミッドの話や、本庄との子供の話など。
それらに二郎は明確な答えを出さない。それは良い。矛盾とは答えが出ないから矛盾なのだ。
二郎の中の、矛盾や葛藤にはカプローニが答えを出してくれる。カプローニとは誰か?
それは二郎の心の声だ。菜穂子をろくに面倒も見ずに死なせ、作った飛行機は戦争の道具となり、数多くの味方や敵の命を奪った。それでも、カプローニは「生きねば」という、これはただの自己弁明でしかない。


だが、二郎が菜穂子に求めた身勝手なもの、二郎が夢の果てに掴み失ったもの、そして、自己弁明、それらを「お前らは断罪できるのか?」と突きつけられる。この問いかけこそがこの映画の持つエネルギーなのだが、ただしそれ故にカタルシスは得られない。ここら辺を不満に思う人は多いだろうな。


大人は声高に「夢を見続ける事の大切さ」「人を愛しむ事の素晴らしさ」を子供に語りかける。だが、現実には、それらは残酷な事ではないのか?欺瞞ではないのか?とこの映画は語りかける。
これを、日本のファンタジーの第一人者が描くのだ。これはまさにブラックジョークだ。
しかし、残酷でも欺瞞でも、それでもそれらを抱えて「生きねばならんのだよ人生は」と語りかけるのは、ある意味では正直で優しさなのかも知れない。


監督が自己の作品に、自己矛盾、自己欺瞞、自己投影、自己愛、自己弁明をぶちまける。そんな事が許されるのはほんの一握りの人間だ(自分が見た夢を映画にしちゃう黒澤明とか)。
それでいて、自己矛盾のためかフラットであり、観た人間の経験や思考により
様々な捕らえ方が出来る作品に作り上げるのは感服としか言い様が無い。そりゃ賛否両論になりますわな。
これは快作であり怪作です。


庵野秀明の声の問題ですが、俺的には有りだった。自己投影された主人公を
演じるのは、監督が認めた「悪魔と契約した人間」でなくてはならず、それが庵野秀明だったのだろう。

それと、これは宮崎吾朗に対するエールなんだと思う。「お前はまだ悪魔と契約していない」とね。