「スクールオブロック」


一言、「THE 映画」ですな。

「ハリウッドリライティングバイブル(以下HRB)」の例として出てきそうなくらい、オーソドックな作り方の凄さを改めて感じた。

※ネタバレもあるので気を付けて*1


主人公デューイが、自分のバンドメンバーに見限られ、途方にくれているところに、親友のネッドへの教師への依頼の電話が掛かっているところまでが、冒頭ちょうど10分。ここまでに、デューイは自分のバンドをクビになり、家賃とバンドのメンバーが必要な事が説明されている。

そして、ネッドのふりをして学校に行き、やがて自分の担任の生徒たちが楽器を演奏している風景を見て、バンドのメンバーにすることを思いつくシーンが冒頭よりちょうど20分だった。

そして、32分のところで、バンドに最初の試練が与えられる*2

ここまで、所謂アクト1の組み立ては完璧である。HRB風に言えば、「誰もデューイが嘘をついて教師になることに疑問を抱かないだろう」

ストーリー構成は置いといて、この映画の良かった点と改善して欲しかった点をそれぞれ挙げる。

この映画は、どんな立場の人間がみても、誰かに感情移入できる。それは、音楽(夢)に対する3つスタンスの人間が登場するからだ。

・夢を見つけこれからそれに向かおうとする人(生徒たち)
・夢を追いつづけ、さらに邁進していこうとする人(デューイ)
・夢を諦め、現実の世界に居場所を見つけようとしている人(ネッド)

この他に、夢を見つける(見つけようとしなかった)事無く現実を生きてきた人(校長)もいるが、これは置いといて上の3つのスタンスのどれかに、誰もが当てはまるのではないだろうか。

主人公デューイはもう素晴らしいキャラクターなのだが、珠玉なのは、その親友のネッド。このキャラクターは超気弱ということなのだが、このキャラクターの造形にこそ、この映画の主張が込められているように見えた。

冒頭、デューイはネッドのアパートに居候している。家賃も払わずただの厄介者になっている。これは、映画で表現されている。

ただここからは、所謂「芝居の裏」つまり描かれていない部分が重要なのだ。つまり、デューイは昔からあんな性格だっただろう。それならなぜネッドはデューイと一緒に住んでるのか?昔の仲間だからだろうか。それもある。気弱なんで付け込まれて押し入られた?それもあるだろう。それでは何故、カタギの道に進みだしてからも一緒にいるのか。

多分、ネッドには、デューイが音楽(夢)そのものだったのだろう。
「抱えてるとやっかいで、本当はもう全て捨て去り消し去りたい。だけど、本当に全て捨ててしまうと、もう二度と見ることができなくなる。自分がそれに耐えられるのか?ちょっとくらいの不便や不快なのは仕方ない。自分が進んできた道だ。捨てればその自分の過去さえも否定する事になる。捨てたくても、捨てるに忍びない。いや、本気で捨て去る気なんてない。自分のはもう捨ててしまったけれど、少しでもつながりがあれば、その片鱗だけでも味わうことが出来るのではないか」

本気で夢を目指してきた人が、それを成し遂げられずにどこかで折り合いをつけて実社会に組み込まれる、自らを組み込ませなくてはならないことは掃いて捨てるほどあることだろう。そして、その人たちの殆どが諦めも悪く、世間からは冷たい目で見られているかつての仲間を、「しょうがねぇな」と吐き捨てつつも、どこかで羨望の眼差しで見てる自分がいる事に気づく。そしてどこかで呆れつつも、心の奥底で応援している自分がいるのに気づくのだろう。
親友ネッドの存在は、そんな人たち全てが共感できるのではないか。

叶わなかった夢を、落とす事が出来なかった女を、男はそう簡単に忘れたり、割り切ったり出来ないもんさ。だからこそ、実生活を象徴する彼女を捨てて、自らが叶えられたわけじゃない夢を見届けることにしたネッドは、この映画の中ではもう一人の主人公になれているのではないだろうか。

*1:つっても、ここ見てる人は少ないと思うけど

*2:ま、これはすぐに解決されるのだが