『この世界の片隅に』2回目

※注意、以下は映画のネタバレをしていますので、未観の方は絶対に読まないで下さい。


1回目観た時は、特に気にしなかった。その後、色々な人の感想を読んだ中で、数人その事に気付いていた人がいた。
なので、2回目の今回は特に気にして観た。そしてそれを聴いた時に、全身に鳥肌が立った。ああ、このセリフこそが、この映画のテーマというか、最重要なセリフだったんだと。だけど、こんな小さな演出で、ともすれば見逃し、聴き逃してしまうような事で表現させたんだと…。


映画最終盤、孤児を拾ったすずと周作が、呉の駅に降り立つ(映画での流れは少し違うかも知れない。ここはちょっと曖昧)。
漫画で確認すると、列車の中で車掌が「くれー、くれー」と言い、孤児が「くれ?」とすずに聞き、すずが「ほうよ、ここが呉」と返す。


映画だと、駅の外に出ていて、おぶっている孤児に、すずが「ここが呉よ」と言い、孤児が「くれ?」と聞き返す。その後に周作が、呉“九嶺”の説明を始める。
この時のすずの「くれ」の「れ」が下がっているのだ。ツイッターで指摘していた人は「れ」が上がるのは広島弁で、下がるのは呉弁だと言っていた。


つまり、この「れ」を下げる事だけで、すずがもう広島の人間ではなく、呉の人間になったという事を表現しているのだ。勿論それに倣って、孤児の発する「くれ」も呉弁。
その後に、説明を始める周作の「くれ」も呉弁。


シナリオや絵コンテを全部見直してないので、間違いだと指摘されるかも知れないが、周作はそれまで一度も作品上で「くれ」と発言していないと思われる。
映画の最終盤で、すずが発した「くれ」のイントネーションと、周作が発した「くれ」のイントネーションが重なるのだ。


この瞬間、この三人が「くれ」の家族になり、三人それぞれが、とくにすずが、「この世界の片隅に」自分の居場所を、自分の意思で作り上げた事が明示されるのだ。
大仰な演出が無い本作だが、ここがこの物語のクライマックスであり、取り敢えずの終着点なのだ(勿論、この後も日常が続いていくけれど)。


多分、殆どの人が聴き逃しているのでは…。俺も1回目は全く気にもしなかった。
でも、頭でそれを理解していなくても、身体には入ってきたはずだ。
だからきっと身体で理解したんだと思う。


観終わった後に、何のどの場面に感動したか、きちんと説明が出来ない状態だった。
大仰な演出ではなく、ともすれば見逃してしまいそうな、本当に細かい演出がいくつもあり、それらが、理解ではなく、身体に刻まれた事で、大泣きとかではなく、全身で感動したんだと思う。
そして、これは映画でなければ表現出来ない。どれだけ素晴らしい漫画家の技術でも絶対に表現出来ない事なんだ。これだけでも映画化された意味がある。


他にも、何点か観直した時に気付いた小さな演出があったが、それはまた別の機会に。


しかし、本当に、こんな言葉の、しかもたった一音のイントネーションだけで表現するとか…。
神は細部に宿るという言葉を、これほど噛みしめた事はなかったですよ、ホントに。