廣田恵介さんと「マイマイ新子と千年の魔法」

ライターの廣田恵介さんが亡くなった。

 

生前、数えるくらいのメールのやり取りと、実際にお会いしたのが一回の自分のような人間が、廣田さんについて書くことはおこがましいと重々承知の上で、誰かが書き残さないといけないのでは…という思いから、廣田さんへの想いを綴りたいと思う。

 

2009年11月。『マイマイ新子と千年の魔法』というアニメ映画が全国公開された。監督は片渕須直氏。
当時、単館系で公開される映画まで目くばりしていた私でも、この映画が公開されていたことは知らなかった。

 

12月の頭に友人から、よく読んでいる映画ブロガーたちが不思議な感想を述べている映画があるので観に行こうと誘われた。ネットで情報を集めると、絵柄は「世界名作劇場」のようで、内容も特に惹かれるものは無かった。それで自分のアンテナにも引っかからなかったのだろうと。ただ、断る理由も無いので、12月の頭の休みの日に新宿ピカデリーへ観に行った。

 

観終わった後の感想は「…?…」だった。「おもしろい」映画では無かったし、「感動」もしないし「泣き」もしない。
昭和30年代の小学生がずっと友達と遊んでいる。それと千年前の平安時代とがオーバーラップするという構造だが、何か特段の事件が起きるわけではなく、感動するようなエピソードがあるわけではない。
映画を観終わった後、歌舞伎町の「とんかつ にいむら」で飯を食べながら、映画の感想を話そうとしたが、盛り上がらないことこの上無かった。

しかし、自分の中で起きていた化学変化はその数時間後に現れた。
その時の感想は下から。
https://fukafuka.hatenablog.com/entry/20091209/p1

 

「面白い」も「感動する」も「泣けるよ」という言葉を使わず、その映画に興味を持たすことを、映画館に足が向くように出来るだろうか。この映画の「魔法」にかかった人がみんなもどかしさを感じている間に、映画は全くの不入りでひと月持たずに公開が終了することになった。

 

想像してみて欲しい。

この世界の片隅に」をあなたは観た。しかし、周りを見渡せば誰も観ていない。薦めてはみるが誰の興味を示さない。そうこうしているうちに公開が終わり、殆どの人が「この世界の片隅に」を知らないまま、作品は消え去っていく…。でもあなたは知っているのだ、「この世界の片隅に」が素晴らしいことを…しかし、知っていても何も出来ない…この絶望感。

 

そんな時に、いち早くブログで「マイマイ新子と千年の魔法」の素晴らしさを伝え、《『マイマイ新子と千年の魔法』上映存続を!》と署名活動を始めたのが廣田恵介さんだった。

 

廣田さんはその当時で、もうアニメ、模型をフィールドとしたライターで、実名顔出しをしている人だったので、そういう人が声を上げたことは、私を含めた匿名ブロガーが声を上げるのとはわけが違い、耳目を集めることになった。


少しづつだけど、署名活動をしていることが知られるようになり、本当にネットの片隅ではあるけれど、話題になるようになり、単館系の映画館でも上映されることが決まっていった。
廣田さんは、署名活動のみでなく、映画館などに直接交渉したりして、この「マイマイ新子と千年の魔法」をいかに多くの人たちに観てもらうことが出来るか…と精力的に活動していた。
ご自身のブログにそのことを連日書かれていて、私もそれを読んで陰ながら応援をしていたが、少しづつ恐れていた事態が起き始めた。


もう15年以上も前のことなので、時効として私のことを書きますが、この2009年の2年前、2007年にアメリカの「ザ・シンプソンズ」が映画化されることになり、日本でも上映されることになったが、その際に、それまでテレビ版で担当していたメイン声優を総取り換えするということがあり、それに対してオリジナル声優版を作って欲しいという運動が起きたことがあった。
実は私はその時のメンバーだったのだが、その時も署名運動や、各業種に訴えかけるという運動をしたのだが、そういう運動は得てして、あまり良くない感情も連れてくるという事を知っていたので、本当に僭越ながら、廣田さんに応援と、アドバイスというほどの上から目線ではないが、私が経験したことをメールを通して伝えたりした。

 

こちらが希望を出して、賛同する人を募るという行為は突き詰めていけば「エゴ」であり、当然それをぶつける相手と言うのが存在する。それを向こうに投げることにより、「誰かの仕事を増やす」ことになり、またビジネス的側面から言えば「誰かの仕事を否定する」ことになるのだ。
そしてビジネスではなく「想い」を原動力にやっていると、味方と思っていた人と一たび齟齬が生まれると、最も厄介な交渉相手に変わったり、負の感情をぶつけられたりする。外野からは心無い言葉を投げつけられる。

グループでやっていた我々でも大変だったのに、先頭にたってその風を一人真っ向から受けていた廣田さんはどれだけ大変だったか…。
当時も読んでいて思ったが、改めて廣田さんのブログを見直すと、そこでご自身が葛藤されていたことが読み取れて痛々しい。

 

でも廣田さんはそこで立ち止まらなかった。

 

マイマイ新子と千年の魔法」は、単館系ではあったがロングラン上映になり、満席になることも多かった。実際、私がラピュタ阿佐ヶ谷に行った時には入れなくて、ポストカードだけもらって早々に退散したこともあった。

 

2010年4月23日に吉祥寺バウスシアターで、主役声優を務めた福田麻由子さんと、片渕須直監督の舞台挨拶が行われることになり、私も上映に駆け付けた。舞台挨拶時の福田麻由子さんへの花束贈呈は廣田さんがされていた。
この時のことは下に少し書き残している。
https://fukafuka.hatenablog.com/entry/20100423/p1

 

後から知ったが、この時プレゼンターに廣田さんを強く推したのは片渕監督だったようだ。
この日にDVDになることも発表され、約半年前に味わっていた絶望感は、希望へ変わっていた。私はこの時の思いを「奇跡」と書き残していたが、今でもその思いは変わっていないし、それは大袈裟な表現だったのだろうか…と問い直しても、大袈裟だったとも思わない。
この日に、廣田さんに挨拶させてもらって、この日まで本当に大変だっただろうと、でも廣田さんの力は大きかったと思いますよと感謝の言葉を伝えることが出来た。

 

世間一般への知名度は全然だったけれど、ここくらいまで来たときに、全くの無名な作品として消えるという最悪な状態は無くなり、「知る人ぞ知る名作」にはなっていった。
私は、この頃「これで片渕監督も次回作創れるでしょ」くらいに軽く考えていた。あのクラウドファンディングの発表があるまでは…。


6年後、「この世界の片隅に」のクラウドファンディングが始まり、3374人の参加で3千9百万円が集まった。この3374人の中に、「マイマイ新子と千年の魔法」の上映存続の署名に参加した1674人はどのくらいいたのだろうか。
私は結構な人数いたのではないかと思っている。私自身がそうだったし、twitterやブログでも表明していた人は結構いた。
それに、上映存続の署名に参加出来なかったとしても、上映が継続されたことによって「マイマイ新子と千年の魔法」を観た人が参加していたかも知れない。
中には、新百合ヶ丘の学校の校庭で観た人が参加したのかも知れない。
https://fukafuka.hatenablog.com/entry/20100822/p1

 

歴史にifが無いことも知っているし、その後に起きたこと全てが廣田さんのお陰だったというつもりもないです。
廣田さんの「マイマイ新子の千年の魔法」の思い入れは、当時から少し「狂気」に感じてしまったこともあったけれど、だからこそ逆風でも止まらなかったし、人を動かしたのだと思う。

 

だから考えてしまうのです。あの時廣田さんがいち早く声を上げなかったら…その世界線の先に「この世界の片隅に」は「つるばみ色のなぎ子たち」は生まれたのだろうか?と。

 

2009年の12月。あの時片渕須直監督の名前を、一体どれくらいの人が知っていただろうか。
2023年の7月。今、片渕須直監督の名前を知らない人が、一体どれくらいいるのだろうか。

 

その後は、特に交流は無かったですが、廣田さんのtwitterやブログをずっと見続けていました。時にはいろいろ物議をかもすこともあったような気もしますが、そりぁ、あれだけの熱さを内包していた人ですから、衝突もあったでしょうね。

 

でも、私からは、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。
という言葉しかないです。

 

合掌。


私の勝手な廣田さんへの想いを書き綴りました。
時系列、事実関係に間違っている箇所があればすみません。私の記憶を元に書いたものなので。

実際に廣田さんが行っていた活動は、廣田さんのブログに詳しく載っているので、2009年11月くらいからのアーカイブを是非読んで欲しい。

『この世界の片隅に』2回目

※注意、以下は映画のネタバレをしていますので、未観の方は絶対に読まないで下さい。


1回目観た時は、特に気にしなかった。その後、色々な人の感想を読んだ中で、数人その事に気付いていた人がいた。
なので、2回目の今回は特に気にして観た。そしてそれを聴いた時に、全身に鳥肌が立った。ああ、このセリフこそが、この映画のテーマというか、最重要なセリフだったんだと。だけど、こんな小さな演出で、ともすれば見逃し、聴き逃してしまうような事で表現させたんだと…。


映画最終盤、孤児を拾ったすずと周作が、呉の駅に降り立つ(映画での流れは少し違うかも知れない。ここはちょっと曖昧)。
漫画で確認すると、列車の中で車掌が「くれー、くれー」と言い、孤児が「くれ?」とすずに聞き、すずが「ほうよ、ここが呉」と返す。


映画だと、駅の外に出ていて、おぶっている孤児に、すずが「ここが呉よ」と言い、孤児が「くれ?」と聞き返す。その後に周作が、呉“九嶺”の説明を始める。
この時のすずの「くれ」の「れ」が下がっているのだ。ツイッターで指摘していた人は「れ」が上がるのは広島弁で、下がるのは呉弁だと言っていた。


つまり、この「れ」を下げる事だけで、すずがもう広島の人間ではなく、呉の人間になったという事を表現しているのだ。勿論それに倣って、孤児の発する「くれ」も呉弁。
その後に、説明を始める周作の「くれ」も呉弁。


シナリオや絵コンテを全部見直してないので、間違いだと指摘されるかも知れないが、周作はそれまで一度も作品上で「くれ」と発言していないと思われる。
映画の最終盤で、すずが発した「くれ」のイントネーションと、周作が発した「くれ」のイントネーションが重なるのだ。


この瞬間、この三人が「くれ」の家族になり、三人それぞれが、とくにすずが、「この世界の片隅に」自分の居場所を、自分の意思で作り上げた事が明示されるのだ。
大仰な演出が無い本作だが、ここがこの物語のクライマックスであり、取り敢えずの終着点なのだ(勿論、この後も日常が続いていくけれど)。


多分、殆どの人が聴き逃しているのでは…。俺も1回目は全く気にもしなかった。
でも、頭でそれを理解していなくても、身体には入ってきたはずだ。
だからきっと身体で理解したんだと思う。


観終わった後に、何のどの場面に感動したか、きちんと説明が出来ない状態だった。
大仰な演出ではなく、ともすれば見逃してしまいそうな、本当に細かい演出がいくつもあり、それらが、理解ではなく、身体に刻まれた事で、大泣きとかではなく、全身で感動したんだと思う。
そして、これは映画でなければ表現出来ない。どれだけ素晴らしい漫画家の技術でも絶対に表現出来ない事なんだ。これだけでも映画化された意味がある。


他にも、何点か観直した時に気付いた小さな演出があったが、それはまた別の機会に。


しかし、本当に、こんな言葉の、しかもたった一音のイントネーションだけで表現するとか…。
神は細部に宿るという言葉を、これほど噛みしめた事はなかったですよ、ホントに。

 『海街diary』

さて、『海街diary』についてだったりする。吉田秋生は自分の心に深く刻み込まれた作家だ。姉が持っていた『吉祥天女』『河よりも長くゆるやかに』『BANANA FISH』を少年時代に貪るように読んだ。まだ、男女の機微などよく解らぬ(今でも解っているとは言い難いが…)年頃ではあったが、「女性の性(さが)」というものをおぼろげながらも、教えをもらった気が今でもしている。
その後、吉田作品に触れる機会はほぼ皆無だったが(『櫻の園』は読み直した)、久方ぶりに話題にもなっている『海街diary』を手に取った。勿論、実写映画化されるというのも、モチベーションの一つではあった。
作品柄もあり、時折見せるキャラクターのデフォルメ化は相変わらずだったが、幾分線は丸みを帯びたイメージを受けた。だが、この人が描きたいのはやはり「女性の性(さが)」であり、そのペン先はやはり自分の心に深く刻み込まれた。面白かった。単行本6巻を一気に読んだ。だから、映画も観たくなった。一見、映像化しやすいような題材に見えて、映画化するのは非常に難しい作品だと思ったからだ。やはり確かめずにいられなかった。公開日の最終日に何とか滑り込んだ次第であった。


ここから先はネタバレ有り。未見の人は注意!


中心の4姉妹を演じた、綾瀬はるか長澤まさみ夏帆広瀬すずはそれぞれ漫画のイメージと合っていた。それは素晴らしいと思った。特に広瀬すずは、十代の半場に現れる少女の無敵感が半端無く、演技力という点では前者三人と比ぶべきものではないが、それを補って余りある“何か”を纏っていたとすら思った。
他の出演者も、まあそれぞれに原作から大きなイメージの乖離がある者も居なく、画面に悪態を付く状況は訪れなかった。原作が好きな人間にとって、ストレスは少なかった。特に原作から改変された部分も微小だったからだ。なので、まあまあな満足感で劇場を後にした。


だが、これは『映画』なのだろうか?


「まあまあな満足感で劇場を後にした」と先ほど書いたが、それは観終わった映画を味わっての事ではない。映画を観て、原作を反芻出来たからの満足感だった。勿論、漫画のキャラクターを美しい女優陣が演じている姿を観れるのは楽しい事ではあるが、原作を読んでいなければ、その楽しさがあったのかどうか疑わしい。それは何故か?この映画は薄すぎるからだ。

原作からの大きさな改変は無い。すず(広瀬すず演じる四女。同じ名前なんだよね)のサッカー仲間である多田が登場しないくらいか。この多田君は病気で片足を失うという大きな出来事があり、それぞれの登場人物達に少なからない影響を与えるのだが…。まあ削るってのは有りなので、あまり気にはならない。それ以外は、それぞれのエピソードが殆ど出てくる。だが、出てくるだけだ。それぞれのエピソードの掘り下げが殆ど無いのだ。
原作を読んでいれば、それぞれそのエピソードが後に登場人物たちにどんな影響を与えるか解っている。だが、次から次へ出てくるエピソードは、それぞれぶつ切られていて、終着点がほぼ描かれない。万遍なくエピソードが逐次投入され、そして消え去っていく。
例を出すとすると、次女佳乃と年下男子との話。佳乃は外資系金融機関に勤めていると嘘を言って年下男子と付き合っている。本当は地元信用金庫で、そこに年下男子が男とやってきて金を下すというエピソード。彼は男にせびられて金を下すのだが、まあそこには事情があったりする。だが、そこは描かない。次のシーンで、年下男子から電話で別れを告げられる。
うん、別れるのはそのまま。だけど、それまでにはいろいろあるんだけど、それはバッサリ。勿論、丁寧に描くと、尺の問題があるが、だったら他のエピソードを減らせば良い。こういうエピソードの積み重ね。その中にある意味は顧みない。ただ出来事だけを積み重ねていく。繋がりも流れも無い。

確かに画的には、鎌倉の美しい街並みと四季の移ろいが現され、4人の美しい女優が映らない時間は無い。一年という時間の流れをフィルムに焼き付けてはいる。それだけで作品としては成り立つのかも知れない。それだけで良いという人も居るだろう。でも腑に落ちない。何も残らない。

進撃の巨人』を観た後にこの作品を観て、「漫画原作の映像化」について考えさせられた。かなりのバッシングを受けてはいるが『進撃の巨人』は、原作を映画に変換しようとする意気込みはあった。『海街diary』は映画にしようとはしなかった。でもこの作品はあまり叩かれる事はないだろう。原作に忠実だからだ。でも忠実だから何だ?映画にする意味があるのか?漫画のプロモーション映像であるなら、この作品は満点かも知れない。でも、この映画単体で見た人は、このモンタージュを観てどう思うのだろうか?

進撃の巨人』の改変が叩かれた事によって、今後は漫画原作の映像化は、この忠実である方に重きが置かれるようになるのかも知れない。でも、それが映画であるかどうかは、疑問符が浮かぶ気がする。

まあ、正直、もう漫画原作の映像化を確かめる気で映画館に行く修正を改めた方が良いのだろうな。でも、やっぱり、気になっちゃうんだよな…。

 『進撃の巨人』

久々に観戦記など。今回は実写版『進撃の巨人』です。


以下はネタバレ有りなので、未鑑賞の方は注意を。


私の鑑賞前状況としては、原作漫画は途中まで読んでます。エレンが巨人になって審判にかけられるくらいまで。
アニメは観ていません。後、阿部乃みくのを観たくらいです。

まあ、シナリオ関係で一番議論に上がっているのは、エレンの人格が変わっているところと、ミカサとの関係性。特にミカサが他の男とデキていたってところですかね。
率直な感想として、この改変については、映画のシナリオ的には正解だと思いました。原作は母親を巨人に食われた『復讐』がエレンの最大のモチベーションになりますが、『復讐』は主人公のモチベーションとしては映画シナリオでは危険だからです。
『復讐』がモチベーションになっている名作もあるじゃないか、と言われる人も居ると思いますが、まあそういう作品は『復讐』を起点として、新たに現在に起因するモチベーションの上塗りを行っているはず。もし原作通りで『復讐』を起点とすると、母親との関係性を画く必要と、ストーリーの途中で、エレンの新たなモチベーションの上塗りが必要となり、その場合母親の喪失を上回る出来事が必要となり、そうするとミカサ関連の事象を起こす必要が出てくる。
いや、小説や漫画では『復讐』起点はありなんですよ。心証を丁寧に描けるから。映画だと、過去に起きた事の心証を語るには、回想等が必要になり、ストーリーを止めてしまうので。

原作のエレンは結構パーサーカーに描かれています。これは過去に起きた事件によってできた人格を元にしてます。それにより、ミカサとの関係性、兄弟であり、異性であり、共犯者であるという強い繋がりもここに起因します。
映画では弱いというか、普通の青年として描かれています。ここも正解だと思った。
出だし中二病全開します。「俺は普通の奴らとは違うんだよ」と嘯き、職を転々。巨人という「現実という壁」にぶつかると何も出来ずに凹み(復讐も企図できないヘタレ)、再会した幼馴染はエリートに寝取られている…。まあ、普通にボコボコです。いや、映画の主人公として、感情移入は出来るようにの工夫はしているとは思う。

ただ、その変更の為にミカサのキャラが変わり、関係性も変わった。結局その為に原作とは違う、改悪だと言われてしまうのも、まあ理解できる。
原作に思い入れがあればあるだけ、やっぱり拒絶する気持ちは大きいだろうなと。『海街diary』を観たのだが、こちらは原作完全踏襲で、改変は殆ど無い。ただし、原作のエピソードを数珠繋ぎにしていて、それぞれのエピソードの掘り下げは殆どしていない。ただの羅列でしかないが、それでも拒絶感は少ない。
実写化する意味とは何なのだろうか?と考えさせられた。映画的に改変するよりも、ただ原作に忠実であれば叩かれる事も無い。では、だったら映画化する意味はどこにあるのだろうか?
まあ、変更する為に起きるだろう批判をかわす為に、原作者のお墨付きがある事を強調していたのだろうが…。


他の、批判されていたところだが、まあそこまで気にならなかったかな。「巨人は人間に声に反応する。声を出すくらいなら舌を噛め」というセリフの後で、ぺチャぺチャ喋り出すというところ。まあ、映画で「何々するな」と言われたら、それは「しろ」って事だからね。「大声に反応する」だったら、良かったかなと思ったけど。
作戦前にイチャイチャしていて、巨人に襲われるというところも、まあホラー映画の定番ですしね。


以下は、感じた事の羅列。


石原さとみのハンジは評判が良いが、原作のハンジを知らないので良く解からなかった。「こんなの初めてっー!」と叫ぶところは、まあ樋口監督と町山さんが言わせたかったんだろうなと。しょうがねぇなオッサンたちは。原作にあるセリフだったらごめんなさい。

桜庭ななみのサシャは可愛いと思いましたよ。「いつまでも私は三菱地所の女じゃないのよ!」という意気を感じましたな。

三浦貴大のやさぐれ演技は名人芸の域に達して来ましたよ。

水崎綾女は「いやいや、君はエレンじゃなくてサンナギに行かないと」と、うーん未だに『俺たちに明日はないっス』のイメージが強いんだよね。

長谷川博己は『MOZU』のアテネセキュリティの東のまんまだよ。いつ「チャオ、倉木」と言い出すのかと気が気でなかったよ。


巨人のビジュアルは、これは比較が無いと解からない。もっと無機質な感じの方が良かったのか、でもそっちの方が不気味感が薄れてしまうのか…。
ただ、正直ちょっと笑ってしまった。何故かというと、誰かに似てるという訳では無いのに、お笑い芸人に見えてしまったんだよね。
で、何でかな?と思ったけど、結局、「だらしない裸」=「お笑い芸人」のイメージが自分の中にあるって事に気付いたよ。裸芸ってまあ昔からあるんだろうけど、テレビで裸芸をやり始めた後の世代だからだろうね。なんで、ある世代以前はそういう風に思わないのかも知れないけど、いわゆる鍛えれてない「だらしない裸」を晒してるを見る機会って、お笑い芸人がやっているのを見てなんだろうなと。


まあ、後編もあるので、前編だけで全ての判断って出来ないけど、凄い傑作ではないけど、凄い駄作でも無いかなっていうのが正直な感想。でも、それは原作にあまり思い入れが無いからで、思い入れがある人が酷評するのも理解できるかなって言うところですかな。

レンタルで漫画を読んでいるが、何を読んだか書いとかないと忘れるので…。


「チェイサー」①②   
作:コージィ城倉
アルスラーン戦記」①②③
作:田中芳樹(原作)×荒川弘(作画)
「娘の家出」①②
作:志村貴子
「われなべにとじぶた」
作:山田可南
「花井沢町公民館便り」①
作:ヤマシタトモコ
「達人伝 -9万里を風に乗り-」⑧⑨
作:王欣太
恋と嘘」①
作:ムサヲ
あれよ星屑」②
作:山田参助
3月のライオン」①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩
作:羽海野チカ
「orange」 ③
作:高野苺
「わたしの宇宙」 ①②(完結)
作:野田彩子
それでも僕は君が好き」 ④
作:徐誉庭(原作)×絵本奈央(作画)
僕だけがいない街」①②③④⑤
作:三部けい
「こいいじ」①
作:志村貴子
重要参考人探偵」①
作:絹田村子
「江川と西本」①
作:森高夕次(原作)× 星野泰視(作画)
「ベアゲルダー」②
作:沙村広明
37.5℃の涙」①②③(完結)
作:椎名チカ
寄生獣」①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩(完結)
作:岩明均
「アイムホーム」上・下(完結)
作:石坂啓
海街diary」①②③④⑤⑥
作:吉田秋生
All You Need Is Kill」①②(完結)
作:桜坂洋(原作)×小畑健(作画)
凍牌〜人柱篇〜」⑩
作:志名坂高次

 『Jリーグ 2ステージ制導入に対するモヤモヤ』

Jリーグが2015年シーズンより2ステージ制+ポストシーズン制を導入することを正式に決定した。
このニュースを聞いてから、何だかずっとモヤモヤしている。何故モヤモヤしているのか、自分なりに考察をしてみた。
批判めいた事も書くが、決して特定の誰かを責めるつもりもないし、貶めるつもりもない。
ただ、悲しい気持ちが強いので、それを残したいと思っただけです。そこを理解してもらって、以下を読んで欲しいです。


今回の件の問題点は以下の3点ではないかと思う。なので、それぞれについて考察していく。
(1)問題提起から決定までの経緯
(2)2シーズン制は、適正なチャンピオン決定システムか?
(3)後ろ向きな改革に未来はあるか?


(1)問題提起から決定までの経緯
今過去の記事を拾ってきたりすると、5月や7月にも2シーズン制のことが取り上げられていたりはするが、俺の受けた感じではこの9月に唐突に議題がでて、拙速に決定されたように思えた。サッカー雑誌を定期購読しているわけではないが、それなりにスポーツに関するニュースは気に掛けていたつもりだが、それらのニュースが耳に入ることは無かった。
2014年シーズンからの導入を断念という過去のニュースもあったので、熱心なサポーターからすると「遂に決定したか…」という感じかも知れないが、ツイッター等で見てみると、今回の決定の報道で知った人も多いみたいだ。
さて、リーグのレギュレーションを変更する際に、必ずしもサポーターの同意が必要だとは思わない。それぞれがそれぞれに意見や見識があり、その全てを納得させることなど有りはしないので。しかし、機構があり、クラブがあるだけではプロサッカーリーグが存在出来るわけではない。勿論観客というファクターが必要であり、実際に支えているのはサポーターの存在だ。しかし、2シーズン制導入の説明の殆どが、既存の観客の存在よりも、スポンサーや新規顧客の存在をより重要に捉えているような印象を受ける。自分たちがリーグを支え、成長させてきたという自負を持つ、熱心なサポーターにとってはこれは裏切られた感覚を得るだろう。
実際には、導入の経緯を知れば知るほど、リーグの窮状を鑑みて導入に一定の理解を示す人は多いだろう。だからこそ、形だけでも良いから、何かしらサポーターの気持ちを汲み取る仕掛けが事前に必要だったのでは無いかと思った。


(2)2シーズン制は、適正なチャンピオン決定システムか?
反対派の中には「1シーズン制が最も公平なチャンピオン決定システムである」という意見が多い。これには大いに賛同するが、1シーズン制にもデメリットは存在する。
欧州の主要なリーグは1シーズン制だが、これらのリーグを観る時に、必ずしも「解かりやすく、面白いシステム」だと言い切れない自分がいる。長いシーズンには重大な山場があるが、これは毎週毎週順位表を追って、今後の日程を見て星取勘定が出来る人にしか解からない(勿論各メディアがそれを補足してくれるが)。また、1チームがダントツに抜け出し、早々に優勝を決めると、後はただの長い消化試合になる。そもそも、欧州の主要リーグは、優勝争い出来るチームは2〜4チームくらいに限られていて、大体この中で毎年毎年優勝チームがたらい回しにされている。
※勿論、リーグの面白さは優勝争いだけでなく、チャンピオンズリーグ(CL)、ヨーロッパリーグ(EL)の出場権争いや、降格争いなども、存在しているが。


シーズン初めから、優勝の可能性が全く無いチームをどういうモチベーションで応援出来るのか?これはもはや文化だからだろうか。
実はJリーグは世界でも有数な幸せというか、面白い1シーズン制のリーグであり、J1としてそのシーズンのスタート地点に立てれば、優勝する可能性は全てのチームが持てるようなリーグなのだ(勿論全てのチームが降格する可能性もある)。前にある外国人監督の言葉に「Jリーグは全てのチームがシーズン前に優勝に言及できるサポーターにとっても幸せなリーグだ。私の国では2,3チーム以外が優勝を口にしたら笑われる」というのがあった。
シーズン最終節まで5チームが優勝の可能性があったシーズンがあれば、2部から上がってきたチームが優勝したりする群雄割拠リーグで、1シーズン制のデメリットを殆ど感じない結果が出ていたら、何故これを変えなければいけないのか?という気持ちにもなるだろう。


ここからは、私見ですが。今回の補填に近い理由でのレギュレーション変更が絶対的に必要であるならば、ポストシーズン制の導入は理解出来る。星取勘定が出来なくても、どこがそのシーズンの山場なのかが解かる。新規顧客にはとりあえず触れさせる機会になるといえばなる。その中から数%でもリピーターになれば、導入の意義があるだろう。
シーズンの価値が下がるという意見も正しいと思う。ただし、アメリカの4大スポーツは全てポストシーズンがあり、バスケのNBAに至っては、全30チーム中半数以上の16チームがポストシーズンに出場出来る。レギュラーシーズンはあくまでもポストシーズン出場を決めるものというコンセンサスが出来上がっていて、それぞれの優勝決定戦、NFLならスーバーボウル、NBAならファイナル、MLBならワールドシリーズ、NHLならスタンレーカップファイナルに勝ったチームがその年のチャンピオンであり、レギュラーシーズンにどんな好成績を挙げても、チャンピオンとは呼ばれない。
※勿論別リーグやカンファレンス制なので、総当たりではないから成立するのだが…。
日本でも、1リーグ制でポストシーズンがある競技も多い。ラグビートップリーグや、バレーのV.プレミアリーグもそうだ。
これは結局、その国やそのリーグの文化や思想によって築きあげられていくものだろうと思う。
ただし、前後期制はいただけないと思う。


(3)後ろ向きな改革に未来はあるか?
こう書くといろいろと怒られそうだ。正確に書くと「後ろ向きな改革(発表)に未来はあるか?」になる。これが最大のモヤモヤ。実際にはこのモヤモヤの前には、上の二つは小さい。

今までいろいろなスポーツのレギュレーションの変更を見てきた。そして、それらの発表は本音と建前の違いがあることは重々承知ながら、前向きな変更だと声高に叫んでいた。
これはレギュレーションというより、競技そのものが変わってしまった例だが、バレーボールはサイドアウト制からラリーポイント制に変わった。この変更は本音の部分は、試合時間がサイドアウト制だとどれだけ伸びるか解らず、テレビ中継する場合に放映時間が読めない、延長する可能性がある。という所だ。しかし、建前では「試合時間の短縮化」「得点の解り易さ」はたまた「攻撃権を持っている場合のミスでも失点するので、一つ一つのプレーが重要になる」といった変更による良い部分を前面に押し出してた。頭を捻る文言もあったが…。
レギュレーションの変更を行うのは、何かしら問題が存在するからだ。もし全てが順調に進んでいるのであれば変更をする必要はない。その変更による不利益よりも、利益を、本音より建前を、大義名分を通常はもっと言うはずだし、言わなければならない。もちろん改悪もある。しかし、例えばプロ野球の統一球だって「全てのチームの使用球を統一にすることにより、不平等さを無くす」「こすっても入るようなホームランを無くし、ホームラン自体の価値を高める」という大義名分があった。変更によって、「こんなに良いことがある」と通常は広報するものだ。


しかし、今回の変更に置いて、関係者が口々に「1シーズンがベストだということは解っているんだが…」と言う。こんな後ろ向きな改革(発表)は見たことも聞いたこともない。合っているかどうか解らないが、例え話にしてみよう。

ある開店20周年を迎えたある飲食店。ここのところ不況も手伝ってか年々客足が減っている。それでも昔から足繁く通ってくれる常連もまだまだ多い。ある時、近くの工場が移転することになり、ある程度見込めた固定客がごっそりいなくなることになった。このままでは「ヤバい」と思っている店主に、助け舟を出す会社が現れる。社内での弁当販売を許可してくれ、更に新規の客を紹介してくれると。ただし、その条件は今の目玉メニューの味を変えること…。
この条件を呑むことを発表すると、常連からは「味を変えないでくれ」嘆願される。それに対して店主は「味を変えないと、いずれ店すら無くなるんだ。だから理解して欲しい」「味は前の方が美味しいのは解っている。だけど、店を守る為にこの新しい味で我慢してくれ」「新規のお客がついて軌道に乗ったら元の味に戻すから」と説明するのだった。


これおかしく無いですか?この店主のやることは、泣き落としすることでは無く「新しい味」がどれだけ素晴らしいかを言い続けることだろう。常連は「昔の味が良い」と言ってる店主が出す料理をどう思うか?新規客は「今は出さないけど、昔出してた味の方が良い」と言っている店主の出す料理をどう思う?実際の味の問題ではない。気分の問題だ。常連はその料理を心から楽しめるのか?新規客はその料理を食べてみたいと思ってくれるのか?


どんなシステムだってメリットデメリットがある。実施前に批判に晒されるものもある。しかし、実際に行ってみたらそのまま定着して成功したものもある。メジャーリーグインターリーグ(日本でいう交流戦)が導入される時にも、批判は上がった。曰く「ワールドシリーズやオールスターの価値低下」「レギュラーシーズン成績の不平等の発生」などだ。この時も、本音はストライキで減った観客の増加が目的だったが、建前では「新鮮なカードの実現」という大義名分で押し切った。今では反対する声は殆ど無い。
プロ野球クライマックスシリーズ。これは未だに賛否両論でどちらというと否の方が大きい感じがするが、大義名分にあげた「消化試合の減少」「ペナントレース独走時の興味の持続」の効果は確かにある。俯瞰してみるといびつなシステムだが、贔屓のチームがある目線から見ると、優勝戦線から落ちても、目標の再設定はしやすい。
今年度から日本のラグビートップリーグは大幅なレギュレーションの変更を行った。従来の14チーム総当たりの1リーグ戦。上位4チームによるポストシーズン制から、2チーム増やし8チームずつの二つのプールに分け、まず8チームで総当たりを行う。その結果により、各プール上位4チームの8チームが上位プールへ、各プール下位4チームの8チームが下位プールへ行く。そして後半戦は各プールで総当たりを行い、上位プールの更に上位4チームがポストシーズンに進むという2プール2ステージ制だ。
このシステムだって問題はある。前半戦で上位プールに入る成績を残せなければシーズン途中で優勝する権利を失う。また、対戦しないカードも出てしまうなどだ。しかし、それらのデメリットを踏まえても、「前半戦の1試合1試合の重要性が増す」「後半戦は全て強豪チーム同士の対戦カードになる」という大義名分の方が正しく魅力的に思えるのだ。
トップリーグはまだ開幕したばかりで、これからどうなるか解らない。ただ、新しいシステムになってどうなるのか?という興味は尽かない。


Jリーグはこれからサポーターへの説明を行いたいという。しかし、切に願うのは、その説明が「補填に対する釈明」では無く、新しいシステムの魅力を前面に押し出したものであって欲しい。俺はポストシーズン制の導入には消極的賛成だが、前後期制には懐疑的だ。だが、それは今までの固定概念かも知れない。一度は行った制度を復活させるのだから、実はもっと違う前後期制の面白さメリットがあるのかも知れない。それを提示して欲しいのだ。「味は変わるけど、もっと美味しくなるんだよ。まだ食べたことが無いのなら、一度は食べてごらんよ」と声を大にして言って欲しい。
このまま行ったらリーグが潰れるよ。ってな話より、こんなふうに新しくなる、こんなに面白くなるって話の方が良いや。特に新規客はそういう話でなければ食いついて来ないだろう。
本音は違ったって、嘘でも、建前でもいいから「チャンピオンシップを、日本のスーパーボウルと呼ばれるようなイベントにする!」とくらい言って欲しかった。
本音の部分と建前の部分なんて案外みんな解ってたりするんだから。


「1シーズン制がベスト…」こんなセリフ、ただのアリバイ作りにしか聞こえない。変更を進め決定した人間が言ってはいけない。それが正しくて、本音だとしてもだ。
川淵三郎という人物は功罪あるとは思うが、メディア複合体である読売の要望を突っぱね「嫌なら出ていけ」と発言したことは、相手が渡辺恒雄ということも相まって、Jリーグの一つの神話になっている。「Jリーグは何より理念を優先する」という印象は強い。「1シーズン制がベスト…」という発言は、この神話を崩していくものだ。


そして、更に切に願うのが、もうこんなリーグの存続を人質にするようなことは、今回限りにしてもらいたい。こんなファンに対して恐喝めいた改革案発表をしたスポーツ組織を聞いたことが無い。


ファン・サポーターは当たり前だが、クラブを愛している、その先にあるリーグも同様だ。今回のように「リーグが無くなること」と「リーグ戦の形を変えること」を天秤に掛けさせられたら、答えは明白だ。ツイッターでも「無くなるよりは…」と今回のことを無理に納得しようとしている人も見かける。
今回の減収や今後の観客減少の見通しがどうなのか、細かいところまでは俺には解らない。本当の危機なのかも知れない。実はまだ余力はあるのかも知れない。ただ、「存続」を天秤に掛けて、今回多くの人を納得させたとしても、それを成功例だとして欲しくない。次に同じようなことがあった時、今回踏みとどまった人も次は離れるかも知れない。「存続」を掛けるという「伝家の宝刀」をもう抜いてしまったことと、それは一度しか使えないものだと思ってもらいたい。


(4)最後に
だらだらと長くなってしまったが、そんなの読めねぇよっ!って人の為に、要約すると、
・決定までの経緯に問題なかったか?
・1シーズン制が絶対的正解とは限らないのでは?
・「補填に対する釈明」では無く、「どう良くなるのか」を語って欲しい。
ってことですね。


いろいろと暴言も書いたが、関係者はそれぞれの立場で奔走して頑張っていると思う。そういう人たちを糾弾したいわけでは無く、
こういう考え方もあるのでは…という気持ちで書いた。1993年のJリーグ開幕。実際にはJSL時代からサッカー好きの戯言です。


最後に自分が考えるポストシーズンの改革案としては、J1を22チームにして前年度の成績を元に11チームの2つのプールに分ける。
同一プール内ではホーム&アウェイの20試合。別プールの11チームと1試合のシーズン31試合。各プール上位3チームがプレーオフに出場。各プールの2位と3位をクロストーナメントして、勝ち上がった方が各プールの1位と対戦。更に勝ち上がった2チームがチャンピオシップを戦う。
まあ、同一プールの1位と2位or3位がチャンピオンシップで戦う可能性があるとか問題はあるけどね。東西地区制を上げる人もいるけどチーム固定よりシャッフルの方が良いかなと。まあ実現しないだろうけど…。


まあ、本当にポストシーズン制は良いんだけど、前後期制だけは止めてくれないかな…。

 「風立ちぬ」

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風立ちぬ』の感想なんぞを書いてみようと思います。
以下は映画の内容に触れていますので、読まれる方は自己責任でお願いします。




映画を観る前、宮崎駿という作家は「宮崎さんはこれは描けないだろう」と言われる事を作品で反駁している人だという印象があったので、恐らく「宮崎さんには“大人の恋愛”は描けないだろう」と言う事への回答で作ったんだろうぐらいに思っていました。
なので、まあそんなに食指は動かなかったのですが、観てみると、そんな俺の単純な思考なんて吹き飛ばす程の怪作でした。


物語の前半は堀越二郎という実在の人物が、戦闘機設計に携わって行くまでを丹念に描きます。
プロジェクトX」か「栄光無き天才たち」といったテイスト。どちらにも嵌った俺としては前半はすんなり受け入れられた。


少し映画から離れるが、前半を観ながら思い出したのは、「栄光無き天才たち」の宇宙開発競争の話におけるフォン・ブラウンの事。
ただ、宇宙に行きたいという夢を持っていたフォン・ブラウンは遅々として進まぬロケット研究に業を煮やし、軍事転用の効果に気付いたヒトラーと手を組みます。そして生まれたV2ロケットは、開戦当初のドイツの大きな力になります。敗戦後、アメリカに亡命したフォン・ブラウンは、幾多のアメリカの研究者が失敗した、月へ人類を送り込む計画を引継ぎ、アポロ計画を成功に導びく。
そのフォン・ブラウンは「宇宙に行く為なら、悪魔に魂を売り渡してもいいと思った」との言葉を残している。


そう、「夢を追うという事は、悪魔と契約する事なのだ」という事をこの物語は現しているのだ。


そして、後半の恋愛パートに移るとそれは更に如実に現される。
挫折を味わい、休養の為訪れた軽井沢で、関東大震災で助けた少女、菜穂子と再会し、出会ってすぐに結婚の約束を取り付ける。
菜穂子は結核を患っている事を告白するが、すんなり二郎は受け入れる。
運命的な再会で、お互いが惹かれ合う様が丁寧に描き出される。なかなか爽やかなシークエンス。
が、ここで背筋が凍るような感覚が…。
二郎はなぜ菜穂子を受け入れたのか?菜穂子の病気を受け入れたのか?
答え的には「別に誰でも良かったからだ」。
壁にぶち当たった二郎は、自分を変容してくれる要素をそこに見出したから。
そして、全く都合が良いことに、要素を構成するまでの手順を省ける相手だったから。
二郎にとって菜穂子はドーピングなのだ。


もし助けたお手伝いさんのがあそこに現れていたら、多分二郎にとってはその人で
良かったのだ(それを諮詢するシーンが震災直後にあったりする)。


これは、同期の本庄が、所帯を持つことを二郎に告げるセリフに連なっている。
失敗している自分と、成功を収めようとしている同期との差がそこにあるのでは洞察するのだ。


菜穂子の方はどうだろう。菜穂子は自分が病魔に侵されている事を知っている。
自分に残された時間が少ない事も。
女性として、残された少ない時間で菜穂子が求めたもの、それは「誰かの心の中に
美しい自分の姿を残す事」その相手として二郎を選ぶのだ。
恐らく菜穂子は「何かを残す事」に執着はあっただろう。絵を描いていたのはそういう事だろう。
そこに二郎が現れる。菜穂子にとっても、二郎は要素を構成するまでの手順を省ける相手だったのだ。
菜穂子には二郎が自分を受け入れるだろうという確信があった。だからこそ、映画史上最もあっさりとした難病告白シーンが生まれたのだ。


まあ、軽井沢の再会は偶然って事なんだろうけど、実際は菜穂子が二郎の行動を事前に知っていて、父親も騙して偶然を装って再会って話だと、菜穂子の執着がもっと強調されたりするんだろうけど。


男女の関係というものが、補完関係だとしたら、二郎と菜穂子の関係は正に完全で、
山を降りてきた難病の女性に対する扱いが薄情だという声もあるが、
自分の存在が、相手の最も大切なものを構築する力になるとしたら、それは菜穂子が最も望んだもの。それこそが相手に自分を刻み込む手段だからだ。


だからこそ、お互いの目的、二郎は新しく設計した飛行機の成功、菜穂子は美しい自分の姿の限界を迎えた瞬間、二人は袂を別つのだ。


この映画には矛盾が散りばめられている。カプローニのピラミッドの話や、本庄との子供の話など。
それらに二郎は明確な答えを出さない。それは良い。矛盾とは答えが出ないから矛盾なのだ。
二郎の中の、矛盾や葛藤にはカプローニが答えを出してくれる。カプローニとは誰か?
それは二郎の心の声だ。菜穂子をろくに面倒も見ずに死なせ、作った飛行機は戦争の道具となり、数多くの味方や敵の命を奪った。それでも、カプローニは「生きねば」という、これはただの自己弁明でしかない。


だが、二郎が菜穂子に求めた身勝手なもの、二郎が夢の果てに掴み失ったもの、そして、自己弁明、それらを「お前らは断罪できるのか?」と突きつけられる。この問いかけこそがこの映画の持つエネルギーなのだが、ただしそれ故にカタルシスは得られない。ここら辺を不満に思う人は多いだろうな。


大人は声高に「夢を見続ける事の大切さ」「人を愛しむ事の素晴らしさ」を子供に語りかける。だが、現実には、それらは残酷な事ではないのか?欺瞞ではないのか?とこの映画は語りかける。
これを、日本のファンタジーの第一人者が描くのだ。これはまさにブラックジョークだ。
しかし、残酷でも欺瞞でも、それでもそれらを抱えて「生きねばならんのだよ人生は」と語りかけるのは、ある意味では正直で優しさなのかも知れない。


監督が自己の作品に、自己矛盾、自己欺瞞、自己投影、自己愛、自己弁明をぶちまける。そんな事が許されるのはほんの一握りの人間だ(自分が見た夢を映画にしちゃう黒澤明とか)。
それでいて、自己矛盾のためかフラットであり、観た人間の経験や思考により
様々な捕らえ方が出来る作品に作り上げるのは感服としか言い様が無い。そりゃ賛否両論になりますわな。
これは快作であり怪作です。


庵野秀明の声の問題ですが、俺的には有りだった。自己投影された主人公を
演じるのは、監督が認めた「悪魔と契約した人間」でなくてはならず、それが庵野秀明だったのだろう。

それと、これは宮崎吾朗に対するエールなんだと思う。「お前はまだ悪魔と契約していない」とね。

『世界にひとつのプレイブック』


この映画を観る前に、知っていると良いかなというアメフトの知識を少し。


【プレイブック】
アメフトの攻撃や守備のフォーメーションや動きなどが書かれた戦術書。
各チームそれぞれ違うプレイブックを持っていて、少なくても100ページ多くて300ページあったりする。
アメフトが難しいと言われる一つに、選手はこのプレイブックの内容を全て頭に叩き込まなければいけない事が挙げられる。実際にプレイをする時に、サインでプレイブックの中の何のプレイをするかを決めるので、全員の頭に入っていないとバラバラの動きになってしまうのでね。


フィラデルフィア・イーグルス
NFL(アメリカのアメフトリーグ)は全32チームあって、それぞれAFCNFCという二つのカンファレンスにそれぞれ16チームに分かれている。それがさらに東西南北の地区に分かれていて、イーグルスNFCの東地区に所属している。
1933年創設という、NFLでもかなり古い歴史があるチーム。
スーパーボウルという優勝決定戦に2回出場をしているが、未だに優勝経験は無い。


【デショーン・ジャクソン】
フィラデルフィア・イーグルスに所属する選手。
WR(ワイドレシーバー)という、ロングパスを受けるポジションの選手。プロボウルというNFLのオールスターに2回選ばれている、イーグルスの中でも全国的に有名な選手の一人。


ニューヨーク・ジャイアンツ
イーグルスと同じNFCの東地区に所属するチーム。1925年創設というイーグルスよりも古い歴史のあるチーム。
近年は、2007年2011年にスーパーボウル優勝をしている。
NFLは年間16試合しかないので、毎年戦うチームはシャッフルされるのだが、同じカンファレンスの同じ地区は、毎年必ず2回は試合する事になっている。なので、NFCの東地区に所属する両チームは自然にライバル視する事になる。


ダラス・カウボーイズ
1960年創設と比較的新しいチームだが、1970年代と1990年代に黄金時代を迎え“アメリカズチーム”と呼ばれ、全米で最も人気があるチーム。
それどころか、世界中のプロスポーツチームの中でも最も資産価値が高いという試算がある。
このチームもNFCの東地区に所属し、ここ最近は毎年この3チームで地区優勝を争っている。


イーライ・マニング
本編中で「マニングをブッ潰せ」というセリフの中で出てくる。
ニューヨーク・ジャイアンツのQB(クォーターバック)という司令塔のポジションの選手。
兄のペイトン・マニングも別チームの同じQBで、現役のみならずNFL史上でも、最も優れたQBとも言われている。全米中でも有名で、『シンプソンズ』にもゲストとして出ていた。
弟のイーライは、長年兄の影に隠れていたが、2007年2011年にスーパーボウルで2回優勝した事で(ペイトンは1回のみ)、兄に肩を並べた、もしくは抜いたのでは…という議論に最近なってきた。


まあ、これだけ知っているだけでも、ちょっと違うかもです。

『ゼロ・ダーク・サーティ』


ゼロ・ダーク・サーティ』観てきました。何だろ、実録物として観たら抜けがあるような気もするし、ドラマとして観たら物足りない事この上ない。中途半端なモヤモヤ感が観終わった後の正直な気持ちだな。

どうやってビン・ラディンが死んだのかは良く解った。ただ「あー、そういう事があったのね」という以上の感想が出ない。何でだろ?という事をちょっとだけツラツラと。


【以下、内容について触れていますので注意】


人物の掘り下げが殆ど無いのは、ある程度意図的だろうと思う。主人公を殊更英雄的に描く事を拒むというか、そういう一人の突出した人格が事件を解決したっていう簡単な構図にしたくは無かったのだろう。時期的に最近すぎるし、まあ関係者もほぼそのまま現役だろうしね。
でも、それが映画的というドラマ的には全くもって物足りなさを感じさせる原因に。


主人公のマヤ。この人の心情の掘り下げは殆どない。冒頭に望んで来たわけでは無い。という素人くささは描かれていて、終盤にまで行くと、まあプロフェッショナルと格上げはされる(時間的に10年近く経っているからね)。けれど、内面的な成長というか、変化は描かれない。描かれているのは、職業人的な成長のみ。これではドラマ的にはなり得ない。

職業物ドラマの持つ一つの命題として、主人公がどれだけ職業的な枠組みから逸脱して事象に取り組むのか?というのがある。どれだけ特殊な職業であっても、それを仕事としている以上、真面目に一生懸命取り組むのは至極当たり前の事。どんなに辛いことがあっても「それが仕事でしょ。選んだんでしょ。嫌なら辞めろよ」となる。誰の実生活でもそう。だからこそ、その人物の意思が枠組みから逸脱することでしかドラマは生まれない。

今回で言えば、それが職業的野心でも、高卒リクルートからくる劣等感でも、9.11によって狂わされた自己でも良いので、何かを明示して欲しかった。そして、最後の自説を突き通す際に、それらが枷になって欲しかった。
例えば、マヤが立てた作戦が失敗に終わった場合、ビン・ラディンがあの屋敷に居なかった場合、職を辞させられるとか、進退をかけられるとかがあるだけで、印象が全然違う。それらの枷をはめるだけで、職業的枠組みを逸脱出来る。そして、そこで初めてマヤの意思が明示出来るのだ。
そうすれば、ラストの突入シークエンスの意味合いも違ってくる。
ラストの突入シークエンスは、確かにその場にいるような臨場感は与えてくれるが、カタルシスは全く与えてくれない。観客はビン・ラディンがそこにいる事は知っているし、殺害に成功する事も知っている。でも、それでも「成功するのかな?失敗しないで欲しい」と思わせるのがドラマの力だ。なぜそれが無いのか?ベット、賭けるものが何もないからだ。
だから、目の前で繰り広げられる突入劇は全くの他人事になる。そして、それを見つめるマヤにも同じものを感じてしまう。失うものが無いのだ。
もし、彼女の何かが賭けられていたならば、突入シーンはもうスピーカーから流れてくる音声だけでも成立すると思う。


後、恐らくそれもリアリティの追求だからだろうけど、上司とか多すぎ。誰か一人、それこそ支局長でまとめても良いくらい。ワシントンに戻ってから、別の人とのやり取りとかになるけど、その人に思い入れも思い出もないので、衝突しても何か違和感だったな。


とまあ、長々と書きましたが、結局自分がアメリカ人では無いので、掘り下げが欲しいとか思ってしまっているのかも。アメリカ人にとってビン・ラディンを探して殺す事に関して、そんな特別な個人的感傷なんていらないのかも知れない。同胞を何千人も殺されているのだから、当たり前の感情過ぎて。