「ジェネジャン」

14日だったかな、何気なくテレビを付けていたら「ジェネジャン」という番組がやっていて、途中からだったから観ていた。「命」がテーマだったのだが、観始めた時はもう最後の方だった。余命を宣告させられたライターのVTRが流れていた。
その人の事は知らなかったのだが、2005年の4月に亡くなったそうだ。出版の予定も決まっていなかったけれど、小説を書き、亡くなる数日前に出版された。処女作だった。
さて、そのVTRが終わった後にスタジオに戻って、芸能人たちがその人のことを踏まえて、自殺願望がある若い人たちに「命の尊さ」を語り始めて吐き気がしてきた。なぜなら、VTRの中で、当の本人が「自分はそういう人たちに、生きるとか死ぬとかいうつもりはないけれど…」というコメントをしていたからだ。自分の意見なら良い。しかし、本人が自分の立場についてそう語っているのに、その人を例に挙げて、「命の尊さ」を語る行為に虫唾が走ったのだ。
で、チャンネルを変えようとしたら、東大卒のペトロ三木というライターが、タレントのふかわりょうに食い掛かる構図になったので、そのままにしていた。
「東大卒」「三木」そして小太りなあの容姿…。ピンと来て、ネットでHPを探したら本名が出ていた。予感的中。中学時代の部活の先輩だった。厳密に言うと、中高で部活が繋がっている学校で、俺が中学時代の高校生だった先輩なのだが。
「すげぇ、ライターになってたんだ」と喜んだ。何故ならその部活は「文芸部」だったからだ(ちなみに俺は途中で辞めたが。三木さんも殆ど部活に来てなかった印象があるが)。初志貫徹というか、あの部活から本当に文筆業になった人がいたとは…。
話は戻るが、ふかわりょうに食い掛かったことが是か非かみたいな話が三木さんのHPやブログ周りを見ると多くあった。殆どが「非」だったのだが…。
で、俺の思ったことを書き記す事にして、トラックバックしておこうと思った。


批判する人の殆どが、「葬式に来ない、小説も読んでいないのにそれが『忘れてない』と言えるのか!」という発言に対してだったが、まあ、それはこの問題の本質からずれているような気がした。
別に、ふかわりょうが葬式に行かなかったことや小説を読んでいないことはどうでも良いと思った。番組でちょっと知り合った程度の人だと言う事だったのだろう。軽い人間関係では良くある事だ。
ただ、「軽い」ならそのライターの「死」を引き合いに、自殺願望のある人に対して「命」の話をするべきじゃないと思った。しかも多分そのライターもそんなことは望んでいないのにも関わらず。
多分、三木さん(すいません、当時はそう呼んでいました)が怒ったのは、この点だったのではないかと思う。そういう話をするならば、少しでも「重い」関係になるようにすべきだと。葬式に行くのが無理だったとしても、せめて小説を読むぐらい(実際、2000円と数時間あれば出来ることだ)はして、話せよ。という事だったのでは無いかと思う。
ふかわりょうは「忘れてないよ」と言っていたが、「お前、数分前のVTRの内容すら忘れてるじゃん」とテレビに突っ込んだ。


人の気持ちの中は解からないが、「葬式行かない、小説買わない」という言葉だけをあげつらうのはどうかと思うけどな。あの時の二人の話の次元が全然違っていた気がするのだが。
まあ、俺の考え方が間違ってるかどうかは解からないけど、とにかく「自分は自殺願望がない」という優位な立場から、「自殺願望がある」人に語りかけるのは嫌いだな。それが優位だと思えないよ。


「非」があった意見の中で一つだけ肯いたのが、「そんな人の死について言うくせに自分のブログの中に『バカは死ね』と書いてあるのはどうか」って事ですね。三木さんの理論で言うと、大学中退の俺は死ななきゃいけないって事になるので…。まあ、一種の皮肉の表現だとは思うけどね。


今調べたら、文芸部が無くなっている、映像研究部も…。鉄道研究部は生き残ってるのに…。