「マイマイ新子と千年の魔法」3回目

ええ、劇場で同じ映画を金出して3回観るのは新記録です。1回目は新宿ピカデリー。2回目は東武練馬のワーナー・マイカル。今回は吉祥寺バウスシアター
ラピュタ阿佐ヶ谷と渋谷アンジェリカには行けなかったけれど、片渕須直監督と新子役の福田麻由子の舞台挨拶があるというので参戦。まあ監督の舞台挨拶はどこかでまた観れるだろうけど、生福田麻由子を観れる機会はそうそう無さそうなので、仕事を抜けて吉祥寺へ。
前乗りしてもらっていたので、整理券も大丈夫だった。一番観てもらいたい人に観てもらえたのでそれは良かった。初見の人が7割から8割くらいだったのも驚いたが、本来そうあるべきで、それも嬉しかった。
福田麻由子は「白夜行」のイメージが強いんだけど、成長してた。雰囲気が変わってたな。ライターの廣田恵介さんが花束を渡してたけど、それは正しいよ。
DVDの発売も夏頃に決まった。それは嬉しいんだけど、これに関してはもっと後でも良いんじゃないかなとも思った。劇場に掛けられるだけ掛けて欲しいし、やっぱり出来るだけ劇場で観るべき作品だと思うから。でも、商業的なことを考えれば、今こうやって話題になっている内に出したいだろうし、まあそもそも出るかも判らなかったことを考えれば、そう思えるのも贅沢な話だけど。


2009年12月9日の日記(http://d.hatena.ne.jp/fukafuka/20091209)を書いた他、ネット署名とロフトプラスワンのイベントくらいにしか参加していないので、俺が何か貢献したとかは今回は全然無いんだけど、商業的とかそういったきな臭いことが目的でなく人が動いていて、その成果がこうやって出てきて(吉祥寺バウスシアターも一度は流れた話だったっぽいし)、こうやってもう5月になろうってのに、まだまだ新しい劇場にかかる情報も入って来るってことに感無量だったりする。
去年の12月頃、もうピカデリーでの上映が終わる頃「こんなスゲーもん作ったのに、コマーシャリズムに敗れて報われない監督って可哀そうだな」とか勝手に思ってたりしたんだけど、今回の舞台挨拶で監督の姿を見て「この人今日本で一番幸せなクリエイターなんじゃないかって?」ってちょっと思って、羨ましく思ったりなんかして。でも、そういう俺の心の動きこそ、あれから起きた現象を含めて奇跡なんじゃないかって思う。
それは大袈裟なんじゃないかって言う人がいるなら「あなたにとってショービズにおける奇跡ってなんですか?」って聞きたい。
「良い作品が良い」って認められるって単純に正しいことを奇跡って言うのは確かに面映いけど、そう思ったって良いだろ。それで、それをそばで眺められることを単純に喜ばしく思ったって良いだろ。だって、それだけの魅力を持った映画なんだからさ。だから監督には幸せになる権利はあるんだ。



ここから先は作品を観た人、またはこれから先も絶対に観ないって思っている人のみ読んで下さい。これから少しでも観ようかなって思っている人は、観終わった後に読んでもらえると嬉しいです。



同じ映画を短時間で3回も観ると、さすがに初見時のインパクトは無いけれど、違う角度から見れたり、「何なんだろう?」って疑問にも答えが出てくる。
「あの感動は何だったのか?」っていう自分の疑問にも掘り下げていって、今回の鑑賞で確信した。
この映画はやっぱり「サイクル」を描いた作品なのだと思う。
感動する作品や家族向け子供向け作品に存在する「生物学的サイクル」ではない。しばしば「生物学的サイクル」礼賛を掲げる作品は存在する。つまり、親から生を受け、結婚し子供を作って、やがてその子供が孫を作って・・・という「生物学的サイクル」の中に主人公を置いて、その存在意義を量るというヤツだ。これはドラマに成り得る。誰しもが、その「生物学的サイクル」の中に身を置いている以上、自らを省みれるからだ。しかし、こういう作品に出会うと、俺は座りが悪くなる。「生物学的サイクル」を今現在全うしていないからだ。感動的な「生物学的サイクル」な作品でも、そこから疎外されている感覚に囚われることもあるし、そもそもそこにしか価値を見出せなくなるのであれば、現在の自分の存在というものを否定しかねないからだ。


人間がどんな時に幸せを感じるのだろうか?と考えた時に、そりゃいろいろな考えはあろうが、大多数の人間が「自分の存在を肯定された時」というのを否定はしないだろう。


この作品で描かれている「サイクル」は、「生物学的サイクル」よりももう少し大きな「サイクル」で、「人と土地との契約のサイクル」ではないかと思う。ここでいう「契約」とは「大地の間借り」であり、人間の生涯というものを考えたとしても、とりあえず「生きるための地」をその間だけ「借りている」のだろう。その土地の所有者が誰かという些些たる意味ではない(現所有者は存在しても、その人だっていうなれば所有権を「間借り」しているだけだ)。
千年前に、さらに数百年前の事に想いを馳せるシーンがあるが、今だって昔だってその地を借りている人がいて、やがて千年先にだってまた借りている人がいるはずだ。だからこそ、人は過去を想像し、また未来を想像し、それらの人々と「土地の記憶」を共有するのだろう。その共有には時間的な制約など存在しない。新子と貴伊子が大地を跳ね、その躍動を千年前の諾子が感ずるシーンは、それを示唆しているのだと感じた。
この「サイクル」の中では、誰しもが存在し得ることになる。そして存在して良いことになる。この「肯定感」こそが、この作品の奥底に流れるテーマであり、観る人に感動を与える源泉なのではないかと思う。ってな事を、3回目を観ながら勝手に考えたりしてた。
だから、ジイさんがあっさり死ぬのも、新子が引っ越すシーンがお涙頂戴にならないのも正しいのだ。「間借り」していた人間が去り、新しい人間がまた「間借り」をしていく。その連続だ。そして大地はただそこに存在しているだけ。だから、真の意味でのこの作品の主人公は「山口県防府市」であり、観た人が今「間借り」をしている「生きるための地」なのだろう。


って、穿ちすぎですかね?
だって、子供の遊んでる描写のディテールが・・・とか言われても、都会で生まれ育ち、田舎も無い俺には、畑や小川で遊んだ記憶も無いので原体験としての感情共有出来ないのさ。だけど、子供が「間借り」していた世界を、やがて卒業しまた新しい子供たちがその世界を「間借り」し、次の世代に受け渡す。っていう小さな「サイクル」で考えると共感出来るんだ。
だからやっぱりこの映画は「サイクル」を描いている作品だと思うし、誰しもが「肯定」される「サイクル」を描いた映画ってのはなかなか存在し得なかったところに、この作品の価値があるんだと思う。


新子の能力が貴伊子に受け継がれているのも「サイクル」で、同じようにこの映画を観た人が、それを誰かに伝えて・・・っていう新しい「サイクル」が生まれて、それを眺められるってことも、この作品の素晴らしさの一部になってきている気がする。
MAG・ネット」やっと観た。いやー、これで次回作撮れますよね、監督。期待してます。


※劇場の前のモスバーガーで監督を見かけたんだが、時間が無くてサインもらい損ねた。終映後は人だかりが出来てたので、すごすご退散。それがちょっと心残りだったな。