「ソラニン」

結構前に観たけど、今頃感想。シネ・ルーブル池袋で鑑賞。
峰なゆか先生曰く「日本で一番オ○○○見せてもらってそうな漫画家」浅野いにお原作の映画化。三木孝浩初監督作品。脚本は高橋泉。主演は高良健吾宮崎あおい



原作は連載時に読んでた。とにかく、ヒロインの芽衣子というキャラの醜猥さが見事というほかない漫画だった。自分自身の「自分探し」には努力もしないで中座し、自分の恋人にアイデンティティの寄り掛かりをして、その上で安定を求めるって、酷い女の子の典型。そして最後には、その恋人の位置に、自分がその資格があると疑いもせずに座る。自分が追い詰めて○した恋人の位置にだ。普通に考えたらスゲー酷い話。でも、そうは感じられない。それでもやっぱり自分の幸せを追求する女子の姿を否定は出来ないんだな男子は。さすが童貞臭さ満載のヤングサンデー連載漫画。もう無くなっちゃったけど。


で、映画。まあ漫画原作の映画は軒並み滑ってる今日この頃。好きな作品だと特にその痛手は大きい。「ハチ○ツと○ローバー」とかね。回避しようかと思いきや、主題歌をASIAN KUNG-FU GENERATION(アジカン)でやるって聞いて観に行くことに。アジカン大好きです。それが無かったら観に行ってないよ。
原作の種田や芽衣子は、まあ普通の男子女子って感じなんだけど、高良健吾宮崎あおいじゃあ美男美女すぎる・・・。えー、一部で、俺があおいタンハァハァでは無いかという疑惑が持たれてますが、まあ好きですよ。前にも書いたけど、童顔高身長の女優は。いつか田中美保の話を書きますわ。
桐谷健太やサンボマスター近藤洋一は原作のイメージをよく表してたね。伊藤歩のアイちゃんも、イメージは違うが合ってた気がする。

アイちゃんの名台詞

「一瞬の気のゆるみで、 積み上げてきたものが全部パーになるかもってことを、 よーく考えてみ?」

これは真理です。全男子は心に留めておくべし。


原作を全て踏襲する必要は全く無いが、何を削り何を足したかで、脚本家や監督の資質が問われるのだとは思う。
何故それを削ったのか?ってのが3つ程あった。
(1)最後のライブの前の、芽衣子と冴木の会話
(2)ビリーの芽衣子への感情
(3)ソラニン演奏中の「終わる・・・曲が終わる」のモノローグ


(1)に関しては、この作品のテーマっていうか、凄く救いの部分だと思っていた。結局種田の本気は認められることは無かったけれど、冴木という一人の人間は動かしたっていう事の表しだったと思うので。これがあるのと無いのでは、作品の意味が全く違って感じられる部分だとは思った。何故削ったんだろう?確かに安直な表現ではあるけれど、身近な人間以外に何かしらの影響を与えたのは、必要な気が未だにしてる。


(2)は何となく、男子ならこういうシチュエーションってあるよな〜ってことで。ただ、これが無いと「ビリー、あんたいいヤツだよ」っていうセリフの残酷さと、種田とビリーの関係性が希薄になる気がする。セリフ一本でやれる事なんだけど、何で削ったんだろう?


(3)芽衣子が共有したかった曲という時間には終わりがあって、それが終わった後に得られるのは、達成感や充足感では無くて、寂寥感や秋霜感であるのが正しいんだと思う。あのモノローグはそれを表現するための物であって、結局あるのと無いのでは、作品全体に与える印象が180度変わってしまうものだと思う。これを削ったのには明確に脚本家や監督の意図があるはずなのだが、その意図の奈辺が全く解らなかった。埋められないものは埋められないままで良いのだと思うけれど、物語の終わりとしての清清しさを少しでも残そうという意図ならば、完全に見誤ってる気がした。


まあ、エンドロールのマスタングで許せちゃう気がした俺は、本当にアジカンが好きなんだなぁっていうのが解っただけだったんだけどね。
最後にソラニンの歌詞の最後の部分

さよなら それもいいさ
どこかで元気でやれよ
僕もどーにかやるさ
そうするよ

何となく、まあそんな気分です。