「マイマイ新子と千年の魔法」

いや、俺は実はバッサリ斬られていたんだ。だが、斬られた瞬間にはそれが解らず、数歩歩いてから、自分が真っ二つにされていたのに気付いたんだ。

ボディブローが後々から効いてくる映画に久々に出会った。観終わった瞬間、それが何か解らず、それを表現する言葉を見付けられなかった。ブログの感想を様々見たが「何に感動したか、解らないけど感動した」とか「説明出来ないけど、良かった」というのが多かった。なるほど、そうだろうなと同意。いや、だって映画批評家ですらそれ言ってるもんな。
持つべきものは、玉砕を恐れずに一緒に突貫してくれる友達と、それを信じる自分だな。いやーマジでhonさんが誘ってくれなきゃ行ってないよ、これ。出会ってないよ、こんな名作。マジで、ダイヤモンドはどこに転がってるか解らないな。


まあ、あまり何が良かったか「説明出来ない」とか言うのは、志を持つものとして悔しいので、考えた。実際、観てからずっと考えてたりする。
正直、観終わった後、ちょっと自分が今まで信じてた事が揺らぎそうで怖くなった。
そう、この映画には『ドラマツルギー』というもの、まあそこまで行かなくても『ドラマチック』という物が存在しないのだ。勿論、そんなシークエンスは存在するが、そんな演出は一切ない。多分、「何か良かったか解らなかった」という人は、殆どが、この『ドラマチック』が存在しない為、演出家から「はい、ここは感動する所ですよ〜」という案内が無かった為、そのポイントを明確に説明出来ないのではないかと思う。バラエティ番組で、笑うポイントで(いるかいないか知らないが)観客の笑いを入れられたり、感動的な音楽や主題歌やGreeeenが流れる事で「はい、ここ感動シーン」ですよと案内される事に慣れてしまった(自分を含め)現代のパブロフの犬にとって、それが明示されないことに落ち着きの悪さを感じてしまうんだろう。
だがしかし、本当にそれが面白ければ、また感動する事なら、ガイドが無くたって笑うし、泣けるんだよ人間は。それを再確認出来ただけでも、この作品の存在の素晴らしさがある。


全体的な演出技法、脚本技法の部分で凄さを感じたは、
○人間を描く『丁寧なリアリティ』
○時間の切り取り方による深み
の2点だ。


○人間を描く『丁寧なリアリティ』
これは、言葉や文字にして説明すると「何だそんなこと」と思われそうだが、それを脚本として書く、演出とやれるというと、キチンと出来てるヤツなんてそうはいないぜ。人間を「生きてる」ように見せる。どんなドラマだって映画だって、それをやろうとしてる。単純で当たり前の事だ。だが、それをそう見せる事の大変さは、一度でも作り手に回った人間なら解るだろう。そう、ダメだと解っていても、ステレオタイプをつくってしまうのだ。
東京から貴伊子という転校生がやってくる。これはもう典型的な『都会から来た内向的な女の子』に見える。主人公の新子はこれもまた典型的な『田舎の天真爛漫な女の子』と見える。
この新子が貴伊子と友達になっていく行程は見事だ。誰だって、『天真爛漫な女の子』が『内向的な女の子』を引っ張りまわしていって仲良くなるってのを想像するだろう。ハイジとクララしかり。これが実に回りくどい。しかしそれこそが、その後の物語を動かしていく説得力なのだ。だってそうだろう、どんなに仲が良い友達だって、一瞬で心が通い合うなんてことなどないのだ。あの沈黙こそが「リアリティ」だ。
時には貴伊子が引っ張っていく事もある。当然だ。だって彼女はただの『内向的な女の子』じゃあ無い。ただの『内向的な女の子』はあんなものを付けて学校に行かないさ。友人達が「臭い、臭い」という。新子は「良い匂い」と言う。セリフ一本だ。ただそれだけで、その後の新子の行動に説得力を持たせている。案外に友人関係などそんな些細な感性的な部分から始まるもんかも知れない。しかし、些細だが単純ではない。大人は同年齢の子供を混ぜときゃ、そのうち仲良く遊ぶだろうとか単純に思う。だが、思え返せばそんな単純なもんではなかった筈だ。どんなに年齢が低い時だって、苦手なヤツもいれば、嫌いなヤツもいたはずだ。些細でも葛藤を乗り越えないで構築される人間関係など有り得ない。大人になった今でもそうだ。こういう積み重ねが『丁寧なリアリティ』だと思う。画の中で「生きてる」ってのはそういうことだろ。
大人の描き方もそうだ。新子のお母さんとお祖母さんは「ウイスキーボンボン」を知っているのだ。これは「昭和30年の田舎の女性達」とステレオタイプに描いてしまうと出来ない。そして二人とも食べるのだ。実はここはかなり感心したポイントだった。
クライマックスと言える、繁華街の出来事。金髪の女は泣く。悲しいからじゃない、自分の心を守る為だ。次の日にはまた同じ日常に戻るだろう。大人は子供を絆す。同情なんてしていない。非日常的な出来事だが、心の中は「そんなヤツはゴマンと知ってる」と微動だにしていないだろう。


何の解決も、成長も、カタルシスも主人公達には与えてくれない(こんな脚本、企画会議で出したらPに投げ捨てられそうだ…)。出来ることは「約束」を交わすぐらい。
でも、それでも良い。いや、それが良い。


ドラマチックになんて世の中は出来ていないのだ。


○「時間の切り取り方」による深み
脚本を作るとは「どう時間を切り取る」のかの作業に他ならない。少なくとも俺はそう思ってる。
これは数箇所でその旨さを感じたが、一番印象に残っている場面のみを書き記す。
最後に貴伊子が満面の笑顔で新子を見送るシーンだ。あのシーン、貴伊子は心からの笑顔をしている。その演出に身震いした。
プロだって、俺だってやっちまいそうな事として、あそこは泣き顔か少なくとも泣き笑いの画を持って来ちまいそうだ。でもそれじゃダメなんだ。いや、多分そうした方が簡単に観客の心は動かせそうだ。「ここは悲しい場面なんだよ」というキーワードとして簡単に入れられるからだ。パブロフの犬に鈴を鳴らしたい。作り手はそう思うよ。
貴伊子だって、初めにそれを聞いた時に悲しいと思ったはずだ。だけれども、それを聞いた時から、実際に新子が行動に移すまでは時間があるのだ。悲しんだり、後ろ向きに考えたり、苦しんだりしたはずだ。しかし、動かせない現実を受け入れ、新子への感謝と、かつて自分がしてもらったように、新しい生活に向かう新子の背中を押す境地に達するのだ。それまでの貴伊子のその心の動きを、あの満面の笑顔を使う事で「切り取った時間」を全て表現しているのだ。あれはスゲー。


とにかく、この映画を「昔(昭和30年代)は良かった」「田舎は純朴・純粋で素晴らしい」礼賛映画だと思ったら(いや、俺が出だし思ったさ)火傷するぜ。1000年前だって、昭和30年代だって、現代だって、その時代にはその時代の良さや暗さがあって、別に昔が特に幸せだったわけでも、不幸だったわけでもないし、今が特別幸せでも不幸でもないっていう作品全体に漂う俯瞰した捉え方は、何だか力を貰える。


ショーシャンクの空に」を観た後の感じに似てた。という感想を書いたブログがあったが、それには凄く賛同する。ただ、「ショーシャンク…」には、最後のアレがある為に凄く「カタルシス」を得れた瞬間を認識しやすいのだが、この作品にはそれが無い。無いがためにダメなのではなくて、無いがために一層その凄さがあるのだ。こんなに『ドラマチックでない素晴らしいドラマ』に出会うことなどそうそう無いだろう。
と、ここまで色々書いてきたが、多分この作品の1000分の1もその素晴らしさを伝えられていないだろう。早い話、とにかく観てくれという事だ。
しかし、平日の朝一か、遅くても昼までしか上映していないらしい。上映館も少なくて観れない地域の人も多いらしい。新宿ピカデリーでは17日までしかやらないらしいし…。うーん、残念過ぎる事なので、観に行ける人は絶対に劇場に行って欲しいし、《『マイマイ新子と千年の魔法』上映存続を!》http://www.shomei.tv/project-1385.htmlという署名活動も始まっているので、是非ともご協力いただきたいところだ。


自分が『パブロフの犬』か?
もし『パブロフの犬』なら、それで満足か?


この映画を観れば、それを確かめることが出来るぜ。
マスコミへの訴求要素が少ないとか、宣伝広告費が少ない(か、どうかは知らないけどCMも一回も見てないしね)って理由で、素晴らしい作品が日の目を見ないってのは、スゲー悲しい。「ショーシャンク…」が公開された時も、テレ東の深夜の試写会のお知らせくらいしかマスに取り上げられなかったんで劇場では観なかった。スゲー後悔したもんな。
「隠れた名作」にはなって欲しくは無い。出来れば収益も上がって、片渕須直監督には次回作を撮って欲しい。まあ、こんな俺のブログを見てくれている人は少ないだろうが、まだ少しだけど時間はあるので、観て欲しいし、署名もしてくれるとありがたい。